変わるべきか、変わらざるべきか。

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存概念と変化

すでにある考え・慣習と、新しい考え・慣習の間にはしばしば衝突が発生する。ここではそれぞれ、既存概念、新概念と呼ぶことにする。

既存概念をサポートする事由

既存概念の維持にはいくつかの利点がある。

既存概念の最大のサポートは、その概念がこれまで存在し続けてきた点にある。これは、その概念がこれまでの環境に対して有効であったり適合していたことを強く示唆する。また、時間とともに概念にも漸進的な変化が積み重ねられてきているはずで、この仮定を通じて人間が発見したもの、人間の叡智などがとりこまれていると期待できる。

もし既存概念のもとで社会が極度に不安定であるとすれば、そうした既存概念は破棄されているだろうから、既存概念はは一種の均衡状態を体現している。従って、既存概念の堅持は安定性の維持に貢献することが多い。

一言でいえば、既存概念を維持すれば今日と同じ明日を過ごせる可能性が最も高そう、ということだ。

安定性という観点からは、人間が既存概念に長く振れている結果として、既存概念になじみ、依存概念のもとでの行動規範が確立されており、安心感につながる側面も見逃せない。人間のコンフォートゾーンは多くの場合現在の居場所のまわりにあり、変化は不安につながることが多いだろう。

  • 現在いる外的環境がこれまでの外的環境と本質的には同じ。
  • 現在の人間の価値観がこれまでと大きくかわらない。
  • 既存環境のもとで不利益を被っている人たちの存在を今後も許容しうる。

といった前提がなりたつ限り、変化することへの障壁を設けることで、既存概念の保持に努めるアプローチには合理性がある。これが保守の基本理念だろう。

既存概念への対立事由

これに対して、変化を求める立場の論拠は、

  • 外的環境が大きく変わりつつある中で、これまでの環境に最適化された既存概念はもはや適切ではない。
  • たとえば新たな権利の概念が認知されるなど、人間の価値観がこれまでとは大きく異なっている。
  • 既存環境のもとでのヒエラルキーは受け入れがたい。

最初の二つは外的。内的変化が存在するのか、という環境認識の問題だ。これは、最適化問題における制約条件の変化と、各ステークホルダー毎の効用関数の形状・パラメーターの変化として捉えることができる。第3の点は1,2とも関連する部分はあるけれど、社会の構成員やステークホルダーここの効用を集計して集団としての効用を計算する際の、ステークホルダーの分布の変化、あるいは各ステークホルダーへの重みづけの変化につながる。

などが考えられる。政治的に革新や進歩派とされるグループは、個人のレベルでは第3の点、集団のレベルでは第2の点を重視するため、保守と革新の対比はしばしば政治的な対立・価値観の衝突として煮詰められてしまうけれど、変化、進化というのは本来はもっと幅広い概念であるはずだ。

昨日と明日は全く同じであることはありえない。そればかりか、例えば技術の進歩、エネルギーの消費など、自然時間(カレンダー)ではなく、人間の活動量により強く関連する種類の変化も多く、100年前の1年と現代の1年がもたらす変化の量は大きく異なることは想像にかたくない。

従って、何もかえるべきではない、という議論も極論といえる。

さまざまな変化

変化には、トレンドとして長い目でみれば一つの方向にむかって進んでいくものと、時に片方の概念が力を得つつも、反対側の概念への揺り戻すなど、振り子のように対立する概念の間で揺れ動くものがある。

技術の進歩

  •   交通手段:車、電車、飛行機など
  •   通信手段:電報、電話、インターネット(電子メール、ビデオ会議、チャット、掲示板など)
  •   生産手段:機械・ロボット、コンピューターなど

健康、ライフスタイルの変化

  • 長寿化、退職後の期間の長期化
  • 勤労時間の現象
  • 共働き率の上昇
  • 大家族 → 小家族
  • 出生率の減少

環境の変化

  •   人口動態(人口、年齢構成、世界でみた地域ごとの人口の変化)
  •   天然資源の算出コスト、人口と天然資源のバランス
  •   温暖化などの自然環境変化

地政学的変化

  •   アングロ・サクソンの影響力の低下
  •   中国・インドの台頭
  •   西洋文化と、東洋文化を含む非西洋文化のバランスの変化
  •   資源の囲い込み
  •   経済と政治・安全保障のバランスの変化、経済的グローバリズムの限界
  •   価値観の普遍性と、ナショナリズム・民族主義などのローカリズムのバランスの変化

価値観の変化

  •   人権の範囲、程度
  •   最低限と考えられる生活水準
  •   個人と集団
  •   人命の価値

世界は思っているよりもっと速く変化している

ざっと思いつくだけでも、これぐらいのファクターはでてくる。少し腰を据えて考えれば見落とした重要な変化要因がまだいくつもでてくるだろう。

今回の考察の目的からは、変化の全貌を捉えられなくても、多くの変化要因があり、世の中は意識している以上に変化するという感覚が得られれば十分だから、要因の数え上げはこのぐらいにしておこう。

これらのそれぞれの項目について、100年とはいわなくても、例えば四半世紀・25年前と今、あるいは平成元年と令和元年を比較するだけでも環境が随分とかわっていることが実感できるだろう。

定量化も課題

いずれ変化について掘り下げて考える際には、3つの要素に分解して考える必要がある。この3つの要素の関係は、非常に簡単な近似をすれば、

変化の総量 =(単位時間あたりの変化量)X(変化が)続く時間の長さ)
変化の影響 = (変化の総量)X (我々の生活の変化に対する感応度)

となる。実際にはこれらの関係は線形ではないし、各要素の値も時間とともに変化するだろう。こうした変化が循環的なのかトレンド的なのか、またトレンド的なものだったとしてもフロアやキャップがあるのかといった点も考慮する必要がある。

変化への対応を阻む要因

これらの変化の必要性を認識したとき、やはり我々の考え方や対応も相応のスピードで変わっていかないと変化についていけず、同じことをしているのに異なる結果、悪い結果につながる事態が容易にそうぞうできる。

変化を阻む心理的、構造的要因として、いくつかのものが考えられる。

ダウンサイドへの痛みと忌避

行動経済学で知られているように、すでに持っているものを手放すことの痛みは、新しいものを得ることによる利点よりも強く感じられる非対称性があるため、マイナスに対する極度の忌避感が生じることもある。しかしどのような変化も、たとえ総体としてみればプラスの方が大きかったとしても、何らかのマイナスが伴う。従って、「マイナスが全く生じない範囲での変化なら受け入れる。」という姿勢は、変化を受け入れないといっているのと同義だ。

また変化に伴うリスクを許容すれば、同じ量の努力をしたとしても、努力の質や仕方のみならず運によっても、結果のばらつきがでてくるのはやむを得ない。残念ながらこのばらつきのうち、マイナスの結果だけを排除することはできない。リスクをとるのをやめればばらつきは排除できるかもしれないが、全体として沈んでいくだろう。

既得権

既得権とは、ある個人やグループがすでに獲得している特権や利益を指す。これは、過去の出来事や条件に基づいて得られたものであり、将来にわたってその特権や利益を享受する権利があるという意味である。しかし、こうした特権・利益は、必ずしも法的ないし制度的な裏付けにもとづくものではない。例えば、野原に最初に家を建てた人は、日あたりを全くさえぎられないという利益を既得権として主張しうる。この既得権を無制限に認めてしまえば、日あたりを少しでも損なうことは既得権の侵害になるため、隣に家をたてることは認めなれないことになる。こうした既得権の無制限の主張は社会的な不平等や不公正を引き起こすばかりでなく、変化への妨げとなるだろう。コミュニティに先に属した人たちによるマイルールの押し付けなどは、この一例だ。

先の例でいえば、最初に家を建てた人の権利はそれが既得権だからでなく、日照権という権利を法的に明確に定義することで、合理的な範囲内で守られる。換言すれば、法的・精度的な裏付けのない既得権は、それが合理的なものであれば独立した権利として認め明文化し、そうできないものについては排除していくことが進化を促進するためには必要だ。

「郷に入っては郷に従え」というのは、大事な知恵だと思う。ただ、これは先に郷に入った人があとから郷に入った人より偉かったり、優越的な地位をしめることを意味しない。郷にルールがあれば、後から入った人もそのルールに従うべきだし、ルールはみんなに平等に適用されるべきだ。更に、そのルールは明示的で公平なプロセスで成立したものであるべきだろう。

業界団体や、利権団体がつよい影響力を持つ背景の一つに、この既得権の過度な尊重があると思う。既得権をみとめず、新規参入などの入れかわりを積極的にみとめることがよどみを解消し、活力を生み出すことになる。

「私はただ今まで通りの生活をしたいだけ。この生活を続ける権利は、努力しなくても与えられて当然だ。」という発想事態が既得権意識のかたまりに思える。全体として今より良い生活を得ことが可能だとしても、それは今までと同じものをすべて持ち続けた上で、追加的にプラスを載せることを意味しないのだから。

変化への不安・コンフォートゾーン

誰しも新しいことに挑戦するのは不安だ。この気持ちは経験を積み、やり方が確立したり、相応の範囲で行動と結果が読めるようになってくれば、ますます強まるだろう。また新たなものを覚えたり、対応したりするのはエネルギーがいる。こうしたエネルギーを年齢を重ねても持ち続けるのは大変だ。従って、人間は経験を積み、高齢化するにつれて変化を徐々に忌避するようになる。

社会全体が高齢化し、意思決定が高齢者の意向をより強く反映したり、あるいは高齢の政治家たちのみによって行われるようになれば、こうした傾向がますます強くなることは想像に難くない。

人の考え方がかわるのには時間がかかる

技術の進歩であれ、価値観の変化であれ、変化に対して適応が早い人もいれば、受け入れるのに時間がかかる人もいる。従って、多くの人に影響を及ぼすような変化は、たとえそれが「絶対的に正しい」ものであったとしても、段階を踏んで漸進的に反映させていくことを考慮すべきだ。こうした現実を無視して、「私は正しい。すぐに変化しないあなたたちはダメだ。」というイデオローグ的なアプローチを取る人たちの存在が、生存本能を刺激したり、感情的な反発を引き起こし、多くの人たちを遠ざけ、反対派の人たちをより強固な反対派にかえることで、かえってプロセスの進展をさまたげることになる。

人間にはよって立つ基盤、アイデンティティが必要だ

変化が必要だといっても、人間には依って立つ基盤、アイデンティティや行動の基準となる羅針盤のようなものが必ず必要だ。こうした基盤や基準がころころとかわる世界はとてつもなく住みにくい。

従って、決して、あるいはごくゆっくりとしか変わってはいけないものや、変えるためには慎重に考慮検討し厳重な手続きを経るべきもの、などが必ずある。

こうした核となる概念に欲張っていろいろなものを盛り込もうとすれば、コミュニティ全体の合意・共感を得ことはできない。こうした、基盤・アイデンティティのエッセンスのようなものは、そのコミュニティ、たとえば日本という国に現在属する人、将来属する人が総体として受け入れられるもの、受け入れるべきものだからこそ、必要にして最小限な、本当に重要な原理・原則の集まりとして、明示的に示されるべきだ。これは憲法であったり、刑法・民法など基本的な法律のようなものだ。この原理・原則は社会のアンカーのようなもので、(あまり)変わらないことが求められる。

こうした原理・原則の外側に、時代と共にかわるかもしれないけれど、今の状況を踏まえて我々がどうすべきかを規定するルールが存在する。こちらは原理・原則と逆に、環境や時代の変化に対応することが求められるレイヤーだ。例えば個別の政策を裏付ける法律や政令の中にはこうしたものが多くあるのではないか?たとえば、産業振興策、補助金、各種の規制、コロナなど突発的な事象を対象にした法律、などなど。

これらについては、従って、法律を触らないのであれば何もしなくてもよい一方で、法律改正のために審議が必要、というのは変化を阻む要因にしかならない。これらには10年、20年といった期間でサンセット条項を設け、一定期間で自動廃案にすることを定めた上で、更新したい場合には時代に即した法案へと修正した上で、新規法案設立と同様の基準で審議することを義務付けるなど、変化をプロセスの中に取り組む仕組みが必要だろう。

まとめ

「同じことをしたら、同じ結果が得られる。」という感覚は、向き合う世界が変わらない時代でないとあてはまらない。世界が激変する中では、自分が同じ立ち位置にいようとしても、流されて行ってしまうのだから、流れにそった立ち位置を常に確保すべく、変化していくことが求められる。

これからは、「定常状態が前提で必要に応じて変化する」のではなく、「常に変化を強いられるのが前提の中で、守るべき原理・原則派堅持していこう」、と考え方の向きを反転させるべきだろう。

とはいえ、変化が忌避されるには十分な理由がある。こうした理由を把握したうえでどう変化を取り入れていくかを考えることが建設的なアプローチといえる。

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