論理的思考の方法論
帰納法と演繹法
かつて数学を学んでいたころ、証明するということは、「明確な定義・過程から出発して、論理的な演算や置換などをくりかえす演繹的なプロセスを経て結果を導き出すこと」でした。定義や仮定などの問題設定に即した形での客観的かつ絶対的な真実がある、という暗黙の了解があることは言うまでもありません。
一方で、経済やファイナンスの実証分析に触れるようになると、命題を主張するにあたって統計的検定によって「証明」するアプローチが一般的であることに気づきます。これはもしかすると、実験物理学などでも同じかもしれませんが・・・。
純粋数学は言ってみれば自己完結しており、行ってみればすべてのオブジェクトは演繹法的に作られるものであるのに対して、経済学や物理学で分析の対象とするオブジェクトは、先に存在していて、不完全な情報を用いてそれを説明していくための枠組みをつくっていかなければならない点が大きな分かれ目なのだと思います。
演繹法こそが緻密に論理を構築する唯一の方法と思って育った私にとって、こうした実証分析はどこか不確かなものに感じらて気持ち悪く感じられたりもしました。
演繹的手法に基づく理論的アプローチはその緻密さゆえに不純物や不可知なものとの相性がとても悪く感じられます。現実の問題を考える上では、この不純物や不可知なものを、定義や仮定の問題として論理構成の外部においやってしまうことが定石です。
まず、現実の中から重要だと思われる構造・特徴を説明したり近似したりできるモデルを、論理的に明快で曖昧さのないように記述した上で、次にこのモデルから演繹的に論理を展開することで命題・主張を「モデルを前提とした上での真実」としてていじするというプロセスです。
アカデミズムは、定義や仮定からスタートする論理構成とその帰結に対して強い興味を持つ一方で、定義や仮定の現実との乖離の度合いについては、あまり重要視しない傾向があるように感じられます。命題・主張を現実から得られるデータや事例と突き合わせて、モデルの妥当性を確認するというプロセスはあるのだけれど、半ばアリバイづくりのように見える、といってもよいかもしれません。
実務家の観点からみると、定義や仮定の置き方、すなわちモデルの作り方のインパクトの方が、そこからの論理展開の仕方の巧拙よりも現実への説明力に影響を持つのに、という満たされぬ気持ちをもつわけですが、これはかつての自分への反省でもあります。
ビッグデータ時代のトレンドは帰納法的アプローチ
ビッグデータ、そしてコンピューターサイエンス全盛の時代になり、二つの大きな変化を感じています。
- より多くのデータを集めることで、事実に近づける。説明力が増す。量で質を補うことができるという感覚。
- 解析的なアプローチにこだわらず、シミュレーションなどの数値計算や、しらみつぶし(絨毯爆撃)手法が活用される。
どちらもいってみれば帰納法的なアプローチといえます。
カール・ポッパーの考え
万物は流転する
「万物は流転する」は、ポパーの言葉ではなくギリシアの哲学者ヘラクレイトスが唱えたとされる言葉だけれど、ポパーの世界観を表すのにもふさわしく思えます。
If God had wanted to put everything into the universe from the beginning, He would have created a universe without change, without organisms and evolution, and without man and man’s experience of change
The world is not formed of things but of processes
Reality as such is inaccessible and we would only be able to capture moments or parts of it.
現実(Reality)に到達することはできない。人間は、それの一瞬や一部を把握することができるにすぎない、という姿勢はそのまま彼の科学にたいする考え方につながります。科学は完成物でも真理でもなく、現時点での我々の把握している部分にすぎない。このため体系だった取り組みによって過ちを正していくべき存在だ、というものです。
The history of science, like that of all human ideas, is a history of irresponsible dreams, of stubbornness and mistakes. However, science is one of the few human activities – perhaps the only one – in which errors are systematically criticized and very often corrected over time
なお、こうした絶対の真理や、究極の正義(を人が知ること)への懐疑は、理想主義や完璧主義への批判につながります。
Those who promise us heaven on earth have never produced anything but hell.
反証可能性 (Theory of Falsification)
科学を、体系だって過ちを修正していく試み、ととらえたポパーの鍵となる主張は反証可能性です。
「反証可能性」とは、科学的理論(言明)の正当性を、それが正しいことの事例(証拠)を挙げる「実証」ではなく、それが間違いであることの事例の検討「反証」によって決定しようとする考え方です。
ある仮説に該当する事例を100個集めてきても、その仮説が正しいことの証明にはなりません。なぜならば、意図的に無視した、あるいは知らなかった101個目の事例が仮説に反している可能性を排除できないからです。従って、その仮説が間違っていることを示す事例を示す最善の努力を尽くした上で、反証例を見つけることができない場合に、仮説を受け入れることの蓋然性が高まります。
なお、このアプローチの大前提に、仮説が明確に定義されていて反証事例を挙げることができる、また検証しやすい、という要求があります。反証事例すら挙げられない理論は科学ではなく、この「反証可能性」によって科学と非科学を線引きすることができるとポパーは考えました。
ポパーの考えが、データ・サイエンス全盛の今どう生きる?
皮相的には、バリデーションやテストによって当てはまりをチェックする行為そのものが反証可能性のチェックになっているといえます。
データマイニングアプローチによって得られたモデルが直面する大きな課題の一つは、オーバーフィッティングですが、オーバーフィッティングの弊害を少しでも和らげるために、トレーニングで得られたモデルに対して様々な手法を用いてモデルを「揺らして」みたり「壊そう」としたうえで、それでも壊れなければモデルに頑健性の検証を行うわけですが、こうしてモデルが有効でないとすれば何が起きるかを考えたうえで、実際にそれを起こそうとする姿勢はポパーの姿勢に通じように思えます。
より一般化すれば、データマイニングが帰納法のかたまりのようなものであるだけに、ポパーの言うような批判的精神でモデルを検証することがより一層重要になってくると言えるでしょう。
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