「時は金なり。」というけれど・・・。

タイムパフォーマンスという言葉を最近になって初めて知った。英語圏で使われているのを聞いたことがないが、そもそもコストパフォーマンスという言葉自体が和製英語だし、これからの連想でできた言葉なのだろう。言葉の由来はともかく、時間に対する意識が高まるのは良いことだと思う。

目次

時間をかけることは、目的であることも、手段であることもある。

時間をかけることや時間がかかることは、手段として考えるのか目的として考えるのか、二面性があることを認識しておきたい。何かを得るために時間をかけることが必要な場合、プロセス自体から得るものがない場合、かかった時間はコストと考えられるのが妥当である。方で、時間を使うことそのものが楽しい場合、楽しい時間が長く続く方が良い。時間を使うことは手段ではなく目的であり、コストではなくベネフィットなのだ。どちらに属するかは個人によって異なる。

例えば、スポーツをすることを健康を増進する手段としてのみ捉える人にとっては、同じ効果が得られる方法があれば、短い時間で済ませたいと思うだろう。しかし、スポーツが気分転換や楽しみである人にとっては、短い時間では満足できないだろう。食事も同様である。栄養補給の手段としてのみ捉えた場合、早く食べ終わる方が望ましいかもしれない。しかし、食事そのものを楽しむグルメの人にとっては、同じ金額でも長く楽しめる食事の方が満足感が高いだろう。

時間をかけること自体が楽しい場合、異なる活動の間で時間あたりの満足度や必要な金額を比較してみると良い。映画を見る、コンサートに行く、美味しいお寿司を食べる、マッサージやエステに行く、テーマパークに行く、スポーツ観戦に行く、自分でスポーツをする、習い事をするなど、様々な選択肢がある。

時間が純粋なコストであるケースを考える。

ここでは、時間が純粋なコストとなるケースに焦点を当てて考えてみたい。商品の購入やイベント参加、場所に入るための行列やチケット入手の競争などが該当する。例えば、有限な席数の無料イベントでは、時間をかけて列に並ばなければ席を確保できず、遅れると参加できない場合もあるだろう。こうした場合には、待つ時間のコストだけでなく、欲しいものを得られるかどうかの不確実性も考慮する必要がある。

極端な例では、有限の席数をめぐる無料イベントで、何時間も前から列に並ばないと席を確保できず、少し遅く来ると待った挙句にもう参加できないこともあるだろう。この場合には、単に待つという時間コストに加えて、ほしいものを得られるかどうかの不確実性にもさらされることになる。

これらのケースに共通するのは、需要が供給量やキャパシティを大幅に超えていることであり、価格が需要と供給がつりあう水準よりも低く設定されていることだ。たとえば価格を単純に引き上げるだけでなく、ダイナミックプライシングなどの手法を導入すれば、このギャップは縮小する可能性もある。ただし、消費者側の心理的な抵抗や供給側の批判を恐れて、なかなか実現しづらいだろう。

価格を引き上げることで需給のバランスをとることへの心理的抵抗

以下に、心理的な抵抗の根拠として考えられるものをいくつか挙げてみたい。

  • サービスや商品はできるだけ安価であるべき。
  • 直接のコストを大幅に上回る価格は受け入れられない。
  • 特定のサービスや商品は誰でも利用できるべきである。
  • サービスや商品の提供元や内容によっては、価格を上げることで利益を得るのは許容できない。
  • お金持ちだけがアクセスできることは不公平であり、経済的に恵まれていない人もアクセスできる余地を残すべきである。

最初の二つは、サービスや商品の価値と価格の関係に関わる議論である。多くの場合、自分にとっての価値や利益を考慮せずに、単に価格に焦点を当てることに違和感を感じるが、時間や労力をかけることの是非とは別の論点だから、この点については別の機会に考えたい。

次の二つに関しては、市場経済の考え方が適用されにくい領域であり、それらが「本当に必要なものである場合」には、価格による需要抑制効果を頼るのは適切ではない。この場合、公的な資金や税金を利用して供給を増やす方法を検討する必要がある。ただし、リソースは有限であるため、本当に必要なものと、あった方が良いものを区別することの重要性は言うまでもない。こうしたケースについても時間・労力をかけることの是非とは関係ないから、ここでは省略する。

今回は「時間の価値」に関係ある最後の論点について考えたい。

時間と金の関係

価格メカニズムに頼らず、供給の割り当てを行うには?

市場経済は、貨幣の価値を物差しとして採用し、異なるものの交換価値を測る際に需要と供給が釣り合う点に価格を定めるという考え方に基づいている。もの・サービスの総意としての交換価値は一つの物差しではかることができる、という含意である。もっともこうした取り扱いになじまないものがあることは明らかで、アメリカのマスターカードのCMで「お金では買えないものもある。それ以外のすべてにはマスターカードがある(”There are some things money can’t buy; for everything else, there’s Mastercard”)」という言葉があるが、これはその考え方をよく表していると思う。

これに対して、需給が均衡する水準に価格を設定するかわりに、超過需要をさばいたり、あるいは限られた供給を割り当てるための方法として、時間と労力を割くことを要求するのは、いってみれば金と時間という二次元の物差しで見ていることになる。最終的に欲しいものを手に入れられた人の目からみれば、市場メカニズムに従うとすれば時間・労力はいらないけれど、より高い価格を払う必要があったものが、低い価格と時間・労力の組み合わせで入手できた、ということになる。

結果として、お金を多く持つ人と持たない人の間で、入手することの難易度・負担感が小さくなる、という点が一般受けが良い点なのだろう。しかし、社会全体としてみたときにも、個人の視点からみたときにも、価格によって調整するアプローチの利点の方が大きいのではないかと思うのだ。

二元的アプローチのメリット・デメリット

時間がない人・忙しい人に不利な仕組みである。

まず、この仕組みは時間を割けない忙しい人に不利を強いる仕組みである。お金がある人が有利になる枠組みに対する反感は感情としてわかるものの、忙しい人に不利で暇な人に有利な仕組みであれば公平であるとは言えないだろう。もっとも、何が公平かというのは倫理の世界の話で、経済的合理性や社会の物質的な面での発展とは必ずしも連動しないテーマだからここではその是非は議論しない。リソースを有限なのだから、なんらかのメカニズムでそのリソースにアクセスできる人、できない人(あるいは自発的にアクセスを希望しなくなる人)をきめる必要があり、その過程でなんらかの序列付けが発生するという点さえ認識すればよいことだ。

供給のアロケーション決定の為に需要サイドがつぎ込んだ時間・労力は消失してしまう

経済的合理性の観点でみると、価格調整アプローチにより追加的に払われたお金は供給者の収入になるが、非価格的アプローチで費消される時間や労力は文字通り消え去るという点が本質的な問題点だ。供給者の追加収入は、まわりまわって(たとえば、供給側の組織における賃金の支払いであったり、新規の設備投資であったり)社会の発展につながるけれど、費やされた時間・労力はそこで消えるだけで、誰の得にもならない。従って、社会全体でみれば生産性が損なわれることになる。

時間とお金の交換価値を個人に取り戻すことができる

では、消費者側の個人の観点でみるとどうだろうか?価格アプローチのもとでは、手許資金が減るかわりに可処分時間がふえることになる。従って、増えた時間から得られる効用が追加的な金銭支出を上回ったり、あるいは増えた時間で追加的な金銭支出を上回る追加収入をえることができれば、ネットでプラスになる。

後者のケースが実現すれば、社会全体でみても何も生産しなかった時間が、生産する時間にかわり、マクロ的にみてもGDPの増加として計測できるようになる。ここでいう生産とは直接的な金銭収入だけでなく、例えば将来の金銭収入の増加につながるスキルアップなども含まれるから、可能性は十分にある。また直接的な金銭収入を目指す方向も、各人の努力や創意工夫が必要になるが、副業が解禁されつつあり、ギグワークも増えている中で真剣に考えるに値することだ。

つまるところ”Time Is Money”なのだ。これは決してお金持ち優遇ではない。費やされる時間をしっかりと評価し、更には時間を有効に活用しようとするインセンティブ付けを取り戻すことだ。この点で「タイム・パフォーマンス」という言葉がでてきたことに少し希望を感じるのだ。時間を最も生産性や効用の高い使い方をするという選択権を個人が取り戻すというかたちでそれぞれが時間とお金の交換比率をコントロールした上で、外部との価値の交換は貨幣価値を通じた取引に一本化することで、マクロ的にもミクロ的にもよりよい社会になるはずだ。

メカニズムが簡単になれば、不確実性を減らすプロセスも導入しやすい

需給調整メカニズムがより簡素になることで、需給の釣り合う価格と、事前の前売りや予約といった形で入手可能性に関する不確実性を減らすことも容易になる。たとえば、観光イベントで、参加できるかできないか不確実性がある上に、まず何時間も並ばないといけないようなものがあったとすれば、旅行者などは参加できないだろう。ましてインバウンドの外国からの観光客などにとってのハードルはとても高くなる。これに対して、応分の価格を払えば参加できるようになれば、海外からの資金の流入も期待できるだろう。これは、国内のリソースの有効活用による効果に加えて、外部からのリソースを引き付ける効果が期待できることを意味する。

市場原理主義という批判はあたらない

時間や労力も貨幣価値を経由して考えることで評価軸を貨幣価値に一本化するというアイデアに対しては、「市場原理主義だ。」との声がすぐに聞こえてきそうだ。ただ、冒頭のお金では買えないものがある、というフレーズや、公共財など市場原理では扱えないものもある、と途中で触れたように、市場が万能だという意見にくみするものではないことは理解してもらえるだろう。

ただし、ある程度市場メカニズムで取り扱うことが可能な財やサービスの取引に関して、我慢比べのような時間・労力消費合戦は合理性にとぼしく社会全体としての効率に欠ける、ということを主張しているだけだ。場経済に対する(感情面、倫理面からの)最も大きな批判の一つである貪欲さ(Greed)とそれに由来するもろもろの問題については、利潤の在り方並びに価格と価値の関係というテーマで改めて整理する必要があるだろう。

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