戦略という言葉は、なんとなく格好がよいのか、よく使われるけれど、一言で説明してみて、と言われると困ってしまう言葉ではないだろうか。もともとが軍事用語からきていて馴染みが無いからかもしれないし、本来意味するものは抽象的な要素、あるいはマクロ的な要素が強く、意識をしなければ、我々の日常の思考プロセスには出てきにくいものだからかもしれない。
普遍性がありながら、ぴったりとあてはまる説明はないだろうかと思っていたところで、なるほどと思った定義はこちら。
大戦略とは「無限になりうる願望と必ず有限の能力とを釣り合わせる」こと。( Gaddis, John Lewis )
願望は、理想と言い換えても良い。同書から、引用を重ねれば、
マキアヴェリが犯した最大の罪は、誰もが知っているが誰も認めたがらないこと、すなわち理想というものは「実現不可能だ」とはっきり示したことにある
現実はつねに理想には届かないのだとアウグスティヌスは教えた。理想をめざして努力することはできるけれども、理想を実現できると期待してはいけない。
とあるように、限界があることを認識することが、戦略的思考の第一歩と言える。目指す方向を示す指針としての理想は大事だけれど、「〜であるべき。〜でなければならない。」といった思いだけでは上手くいかず、現実を認識することが必要不可欠だ。
現実を認識する上では、善悪・好悪などの主観を廃し、事実をあるがままに認知することが求められる。このためにはデータなど客観的な資料に基づくことと、バイアスのかかったフィルターで情報を取捨選択しないことが求められる。「ファクトフルネス」は認知バイアスの影響力とデータに依ることの重要性を教えてくれる。
日本の文化と戦略的思考は、相性が悪い気がするのだけれど、これにはいくつかの要因があるように思える。
一つ目は、「建前と本音」の呪縛である。建前とは理想、或いは綺麗事と言っても良い。これに対して本音は現実と言えるだろう。公の場で、本音の議論がなかなかできない、ということは現実認識に基づいた議論ができないことを意味する。
例えば、リソースが限られており全ての人を救うことができないという状況にあれば、誰を救うかを決めることは、誰を救わないかを決めることにつながる。ここで、「人の命は全て平等だ。」という理想・建前が現実的な議論を不可能にしていないだろう。
二つ目は、「成せば成る」という精神主義だ。精神主義の枠組みにおいては、精神力の限界は、意思が弱いという個人の問題に捨象され、本質的な限界が意識されることは少ない。
この結果、無限の理想と、有限の現実の間のギャップを、戦略立案ではなく無限の精神力でカバーすることができるという、恐るべき発想に至ることになる。構造的な問題や矛盾を、個人や現場の頑張り・創意工夫で乗り越えようとすることはこうした現象の良い例である。旧大日本帝国軍の行動に例をとるとすれば、「ノモンハンの夏」などが参考になる。
三つ目は、「都合が悪いことは怒らない。」という現実逃避的な思考法だが、これがどのような文化的背景に由来するのか、私にはわからない。
これらの思考に共通して言えるのは、理想と現実のギャップを曖昧にし、理想の何を諦めるかという戦略立案の本質的な作業を徹底的に回避することにつながることである。
こうした認識を自分への戒めにするとともに、このブログでは、理想主義からの批判を恐れずリアリズムに基づいた分析をしていきたい。